Interview with the management経営者インタビュー
青森
2021.06.10
社会貢献/自己実現
株式会社 桜田造花店が拠点を置くのは青森十和田市。代表・桜田裕幸様の祖父の提灯屋さんに歴史は始まり、裕幸様の代で3代目に当たるといいます。商人の家系に育った桜田様、小さな頃から家業を目の当たりにしていたそう。加えて若い頃には様々な国へ赴いたり、東京の会社に所属したりして、知見を深めてきました。家業をついでからは「地域に人に信頼してもらえる葬儀社を」と活動に当たってきました。
多くの経験を経て葬祭業に従事し、桜田様が感じた業界の魅力、そしてルールのない家業を企業にするべく行った取り組みやこれからの展望について、桜田造花店の代表・桜田裕幸様にお話をお聞きしました。
―――桜田造花店の歴史についてお聞かせお聞かせください
桜田造花店という会社は私の代で2代目、しかし提灯屋であった祖父の時代から葬祭業をやっていたそうなので、そういった意味では3代目という計算になります。祖父は提灯作りを主業とし旅館や消防団に商品をおろしながら、一方で村の市から仕入れた古着などで商いをする、いわば何でも屋をやっていたそうです。葬儀業もなんでも屋の商いの一つでした。
やがて時代の流れから提灯製造業が斜陽産業となり、先代社長に当たる父の代になってから葬祭業をメインに関連備品を販売する事業に転換。昭和43年に法人化し、桜田造花店となりました。
―――家業を継がれる意識は最初からあったのでしょうか?
私は3人兄弟の長男でしたので、「跡を継ぐことになるだろうな」とは薄々思っていました。父も好きにさせてくれていましたが、長男である私は帰ってくるだろうと考えていたはずです。暗黙の了解みたいなものですね。ただ小学生の頃は家業について、恥ずかしいという思いを抱いていました。学校で親の職業は?と聞かれるたびに嫌な気持ちになっていましたね。
継ぐこと意識していた大学生活でしたが、どうせ継ぐのが決まっているなら「遊んでみよう!」と、“留学”ならぬ“遊学”と称し、大学卒業後、2年間、海外へ行っていました。はじめはイギリスの語学学校に通っていたのですがどうにも英語が覚えられず……。3ヶ月でやめてしまいました。それからはバックパッカーとして2年弱、世界を放浪。とても良い経験をしたと今でも思っています。
日本に戻ってきてからは、まだ継ぎたくないという一心で東京の不動産会社に勤務。働いていくなかで、会社組織のあり方を体感していきましたそうこうしているうちに20代も折り返しに差し掛かっており、実家に戻ることを決意。父親からは特に戻ってこいなど言われていませんでしたが、とても喜んでもらえました。
―――実家に戻られてから葬祭業に携わり、どのような印象を抱かれたのでしょう?
小さい頃から見ていた葬祭業ですが、父のもとで一から学び携わっていくなかで「こんな仕事だったんだ」と驚きました。
葬祭業は亡くなったご遺族のもとへ向かうところから始まります。他の社員と協力し準備を進め、父が最終的にチェックを行い、葬儀を無事に終わらせる。お金をいただくときには、お客様から感謝され、大きな額のお金を扱う業務もありました。こんな仕事していたんだというのが、会社の中に入ってはじめてわかったんです。
お仕事をしていくうちに段々と、こんな素晴らしい仕事が世の中にあるんだなと思うほどにやりがいを感じるようになっていきました。
―――お仕事で印象に残っているエピソードがあれば教えてください
葬祭業には夜中の搬送があります。私が入社した当時は携帯がなく、固定電話しかありませんでした。そのため夜中のトイレ行く際には、子機を持って自宅のトイレへ向かったのを覚えています。子機がなかったときはようを足すのもドアを開けたまま。お客さまからの連絡をとるためには固定電話の取れる範囲しか動けないんです。また大きい病院にお迎えにいった際、何もできず、涙が出るほど悔しい思いもしました。
そういったいわゆる裏の部分を経験して以来、ご遺族の手間をかけさせちゃいけない部分を我々がプロとして行わなければならないんだと、葬儀社の人間としての気持ちが芽生えました。
―――お父様からの教えで印象に残っているものはありますか?
「驕り高ぶりは絶対だめだ」という言葉が印象に残っています。
当時の葬儀代はとても高額でした。我々が活動しているのは小さな町ですから、地域の方の間には「桜田造花店は金持ちだな」というイメージがどうしても湧いてしまいます。そういったイメージに対し、父は「絶対に儲けるのが目的ではない。人様のためにやってるんだ。だから金持ちだなと見られないように、驕り高ぶりはだめだ」と。
真面目に一生懸命やらなきゃいけないという意識は、しっかりと受け継ぎ今も仕事に当たっています。また父の頃に決めた企業理念もそのまま活用しているんですよ。
―――会社を継ぐに当たってはどのような取り組みをされたのでしょう?
当時の桜田造花店は葬儀を専門に手がける社員が4名、店舗に立つスタッフが2名というとても小さな会社でした。始業時間も決まっておらず、明確な営業活動もない“企業”ではなく“お店やさん”という雰囲気で運営されていました。父は根っからの商人だったため、あまり問題だと感じていなかったようです。
2年間、東京の不動産会社で働いていた際に、会社というのは組織でルールや事務所、営業所が必要だと肌で感じていましたので、父の元で葬儀について学びながら、“お店やさん”を“企業”に変えていく活動を行っていきました。
当時、葬儀専門に在籍していた4名でそれぞれ担当を決め、役割を分けました。また始業と終業の策定や朝礼の実施、また休憩所を作っていきました。当時はケータイがなかったので、昼休みに会社の外に出てしまうとお客様からの連絡を取れなかったんですよね。父はそういった取り組みをどんどんと私にやらせてくれました。とてもありがたかったですね。
―――お父様から会社を継がれて、変わったことはありましたか?
地域で活動していくには地域に貢献しながら、地域の人たちに求められる、信頼してもらえる、葬儀社、そして葬儀屋の人でないといけないと思うようになりました。 仕事を通じて、地域に貢献して行くにはまず地域の人を知らなければなりません。
そのために会社に入社して3年経った頃、青年会議所に入りました。青年会議所では様々な会合がありますがほとんど100%の会合に出席。京都会議にも同行させていただくことができました。青年会議所への参加を通して、青年経営者の仲間と同じ目標に向かって仕事以外の面でも活動するようになりましたし、リーダーとしての指導力や人脈も得られました。
今では商工会議所にも所属し間接的ではありますが、色々な方から仕事をいただいています。そのほかにも近所の掃除やゴミとり、また税金を納めることも地域貢献の手段の一つだと考えています。みんなが一生懸命頑張って、しっかりと税金を払えるように活動しています。
―――これからの目標についてお聞きしてもよろしいですか?
今後、少子化の影響で人口はどんどん減少していき、お葬式の規模も小さくなっていくことでしょう。またコロナウイルスが流行もあり、現在はシンプルな家族葬へ注目が集まっています。おそらくコロナウイルスの流行が収まっても、このまま流れが進んでいくと思うので、社員にも「今やっていることがこれからの我が社の仕事だから」と伝えています。
家族葬が中心となってくると、お客様に満足してもらいご依頼の件数を増やしていかないといけません。人口が減少で件数を増やすためには、新しい地域へ出店して行く必要があります。地方なのでしがらみはありますが、隣接する地域まではどうにか店舗を出していきたいですね。色々と準備をしたり、チラシを巻いたりして少しずつ取り組んでいきたいと思っています。また役職についている社員の後進育成にも力を入れていきたいと考えています。
戦略的にやることが増えたので、今ではお葬式の仕事がないときは考え実践できるチャンスだと思えるようになりました。チャンスをしっかりとものにして、これからも地域に貢献しながら頑張って行けたらと思います。
<この記事を書いた人>
■インタビュー つむぎ株式会社 代表取締役 前田亮 <https://tsumugi-mirai.jp/>
■ライティング 高橋昂希
大学卒業後、フリーライターとして、ストーリーを軸に据えたインタビューやレポート記事を執筆している。また物撮りやプロフィール撮影をこなすカメラマンとしても活動中。
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