Interview with the management経営者インタビュー

後世に襷をつなげたい ~かじや本店(株)~

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千葉

2021.10.18

社会貢献/自己実現

後世に襷をつなげたい ~かじや本店(株)~

千葉県富津市で100年以上にわたり、地域の方に寄り添い、愛されてきた「かじや」。いい葬儀、いいお別れができる場を提供できるようにと「和葬空間 か志”屋」を立ち上げた、かじや本店株式会社の平野清隆様にお話をお伺いしました。

葬儀屋の仕事をまだ知らない中での、先代との急なお別れ。様々な葛藤の中で平野社長が歩んだ道のりは、常に会葬者や故人の方に寄り添うものでした。そんな平野社長が持つ、葬儀屋の仕事や葬儀業界についての熱い想いとは…?

今5代目とのことですが、まずは創業の歴史を教えてください

「かじや本店」は、明治35年に青果問屋としてスタートしています。その当時「葬儀屋」という側面はなかったと思うのですが、地域に寄り添って商売をするうちに、葬儀に使う道具も少しずつ扱うように。そのうち葬具屋としての側面から、だんだん祭壇と供物もお願いされるようになり、葬儀屋になっていきました。何年からやっているかは分かりませんが、自然とそうなっていったようですね。

私は20歳からかじやの仕事を手伝い出したのですが、24歳のときに父が急に亡くなって。その時に父が考えていた会館建設は白紙になり、母と私の2人で仕事をするようになりました。

当時から「困ったときのかじや」と同業者から言われるほど、地域の葬儀屋とのつながりは深かったですね。母が誰とでも友達になれる人柄だったので。地域の業界での母の影響力はとても大きかったです。

供物の配達量が他社よりとにかく多かったので、私は配達をしながら他社の葬儀の仕方を研究しました。

「継ぐ」ということはずっと考えていたのですか?

正直なところ、継ぎたくはなかったですね。子どものころから「葬儀屋」というとイメージが良くなかったので、周りには「かじやの花屋」と言ったりしていたくらいです。兄と弟は最初から継がないと言っていましたね。

私は専門学校を卒業した後、就職難でいい就職先が見つからず、東京での生活にも馴染めなかったこともあり、一旦地元に戻って実家を手伝いながらこの先どうしようかなと考えていました。その頃には、今まで100年くらい続いているものを私で終わらせていいのかと葛藤もありましたね。

当時、父とは花輪や供物の配達、葬儀の支度・片付けは一緒にしておりましたが、葬儀自体について何も教わっていないですし、修行にも出ていないので葬儀には無知で自信がありませんでした。

そんな状態で渡されても急にできるわけがない。でも今になって考えてみるとかえってそれが良かったんですよね。自信が無いからこそ人より頑張らないといけないと思えたのです。

この地域はお寺で葬儀ができたので、寺院葬や自宅葬、たまにホールを借りて施行しておりました。自宅葬は受付・焼香所・駐車場・祭壇設置場所等、また動線を常に考えなければならないので、いい経験になり鍛えられましたね。今の家族葬とは違い200とか300の会葬者を相手にしますから。今は会館葬が主ですが、寺院葬や自宅葬は依頼があればもちろん受けます。

会館が無い当時、田舎の葬儀屋って舐められるのが嫌で一生懸命に母と私だけで寝ずにやり、この少人数でここまでやっている葬儀屋は全国でも他にないと思うくらい働きました。弊社だけでなく当時同じことを考えていた葬儀屋さんは多いと思いますが(笑)

お父様が亡くなられたときの心境を教えてください

父から「後を継いでくれ」とは一度も言われませんでしたね。「見て覚えろ」というタイプの無口な人間で。そんなある日、「そろそろ霊柩車の運転をやってみないか」と言われ、私は助手席に座り、父の運転で火葬場まで行きました。

数日後、霊柩車の仕事が入ると父は私に「やってみろ」と言ったんです。当時、私は24歳。今振り返ると、とてもいい加減な人間で、初めての霊柩車配車の日に寝坊してしまいました。起きてこない私を起こすわけでもなく、お昼に会社で顔を合わせても父は私に何も言いませんでした。

私は気まずくて何も話さず何も触れなかったのですが、その日の夕方に作業場で父が倒れているのを見つけたんです。そのときは「自分が朝ちゃんと霊柩車の仕事に行っていれば」と自分を責めました。

頭が真っ白なまま葬儀が終わっていく中で、葬儀に携わっている人間でさえこんな気持ちになるのだと知り、やはり葬儀屋という仕事は必要だなと強く感じました。それでも、なかなか葬儀屋を継ぐ踏ん切りがつかなかったのですが、場数を踏み、徐々に仕事に向き合えるようになっていきましたね。

葬儀会館はどのようなきっかけで建てたのでしょうか?

会館を作るならこんな感じだなというイメージがあったので、父が亡くなってしばらく経ってから、やはり会館を建てようと思いました。ですが、会社所有の土地どころか富津市の建築基準が厳しくて建てる場所がなく、苦戦しましたね。

それから10年くらい経ち、ダメもとでもう一度役所に尋ねたら、「当時の職員の見間違えで、建てられますよ」と言われて。「10年返せよ」とそのときは思いましたが、逆にこれはやれということか。いや、やるしかないなと思いました。

寺院葬をやっていたとき、お客様にもお寺の方にも「かじやさんでないと」とよく言われていて。葬儀屋をやめようかなと思ったときに限って、不思議とそういう言葉をいただくのですよね。会館を建てたらもう逃げられないと思い生きてきましたが、あのときだから会館を作る決意ができたのだと思います。

葬儀の中で大事にしていることは何でしょうか?

私は葬儀屋こそ「究極の接客業」だと思っています。施主や親族、お寺の方や会葬者もそうですが、まず一番のお客様は故人様ですよね。残念ながら故人は話ができない状態なので、要望が分からないお客様をいかに満足させ、旅立たせるかが葬儀屋の仕事なのかなと。

葬儀が終わった後、「亡くなった方はこのお別れの仕方で良かったのかな」といつも考えています。もちろん答えは分からないのですが。

そう考えると、故人のためにといろいろこだわり出しまして。例えば線香。ただ線香をあげるだけでなく、いい線香をあげてあげたい。線香一本にそこまでこだわる葬儀屋は少ないと思います。

また弊社の恵まれているのは歴史でしょうか、ありがたいことに先人達が残していった備品・法具等も他にはないものですね。その先人達の想いが「かじやにしかできない葬儀」を作り出しているのかもしれないと思っております。

これからはどこを目指していきたいと考えていますか?

これまでは働くだけ働いてきましたので、これからは教えていく年代なのかなと思っております。自分を越えていく人をどんどん育てたいですね。まずは第二の自分を作らないといけない。そうでないと私自身の体が持たないので。子どもとも遊びたいですし、そろそろ休みもほしいですからね。

私がこの歳になって表に出ようと考えているのは、業界の方向性を変えたいから。私は長年葬儀に携わり、自分自身も責任を感じておりますが、今現在の葬儀またはお別れについてこれでいいのかと疑問に思っていまして。

だから閉鎖的な業界ですが、こういう会社があると知っていただき意識してもらうことで、全国各地に変わった葬儀屋が増えてほしいですかね。お互いを意識し合ってお別れのレベルを上げていくためになればと。私もまだ勉強したいです。

同業者の方、ぜひ会館へ見学に来ていただき、見ていただきたい。

子どもたちが大きくなり、もし継ぐか迷ったときに葬儀屋という職業に魅力がないと選ばれませんよね。「こんなすてきな仕事やってみたい」と思ってもらえるようにして、後世に襷をつなげたいです。

最後に「かじや」としての今後の展望を教えてください

私は今のところ1店舗しか作らないと決めています。父の夢というのもありましたので、出だしは遅れましたが全力でここまできましたから。いまは一休み中かな。

私のタイプからしても多店舗化するタイプではないですし、どんなに忙しくとも故人に線香をあげる「見える経営者」でいたいです。

今までは会社を大きくした人がメディアにも取り上げられてきましたが、このようなご時世になり、そんな時代でもなくなったかと。逆に、1店舗しか作らないというこだわりだけでメディアに出たい。こだわりの方で葬儀業界を変えていきたいです。

もう一つの目標は、矛盾していますが、もしもう1店舗作るならどんな会館を作るのか。「か志¨屋」よりいい会館はかじやにしか作れないと勝手に思い込んでいるわけですが、ではどうすれがそれができるのかを、毎日考えています。

何かのきっかけがあれば、今を越える会館を作ってみたいという気持ちは少しあります。考えるのは大事ですから。でもなかなか浮かびませんよ。もしかしたら社員や子どもが、それを実現してくれるかもと期待しております。

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