Interview with the management経営者インタビュー
北海道
2022.08.10
社会貢献/自己実現
北海道稚内市に拠点を持ち活動している、株式会社武藤はくぜん。昭和40年に創業し、今年で57年。現在は3代目社長が営む葬儀社です。
お話を伺ったのは、株式会社武藤はくぜんの代表取締役・武藤尚社長。
「舞台の大道具に関する仕事がしたい」と志し東京に出たのち、ご縁があって葬儀社に就職。しかし、お父様との電話で“自分が本当にやりたいこと”に気が付き、今は地元・稚内で儀礼文化を創ることにご尽力されています。
武藤社長が本当にやりたいこととは?創りたい“儀礼文化”とは何なのか?その根底には、お爺様・お父様から伝わる「稚内の人々への愛」がありました。
まずはじめに、武藤はくぜん様の歴史からお伺いしてもよろしいでしょうか?
はい。武藤はくぜんは、祖父が昭和40年に創業しました。
祖父は戦争から帰還したあと、手先の器用さを活かして声問村でバイク屋を始めたそうです。声問村は稚内市の隣町で、祖父の生まれ故郷なのです。その後祖父は、姉を頼って稚内市から浜頓別町に転居し、様々な仕事をしていました。そのような時に、祖父は達筆で手先も器用であったため、町内会が行う葬儀のお手伝いを頼まれたそうです。これが祖父にとって大きな転機となりました。「葬儀の仕事は相手に一生懸命尽くすことによって喜ばれるいい仕事だ!」と感銘を受け、武藤はなや(葬儀・造花業)を創業しました。
その後、稚内市にいた小学校時代の同級生から、「稚内は漁業で街がどんどん良くなるから稚内に出てこい」と言われ、昭和42年に稚内に移転をしました。
父は、浜頓別町の高校を卒業後、東京の芸能プロダクションで演歌歌手などのマネージャー業をしていました。仕事柄地方巡業などで地元の人と関わる機会が多かったこともあり、人間味が溢れる義理と人情の人です。昭和47年に稚内へと戻り、祖父の事業を手助けすることになりました。
その3年後の昭和52年に「株式会社 稚内博善社」として法人化し、平成元年に父が社長へ、令和元年に私が社長へと就任しました。
武藤社長は、昔から家業を継ぐことに決めていたのでしょうか?
いいえ。高校卒業後は東京へ出て、舞台演出学部・舞台美術科のある専門学校に進学しました。壊れた葬具を直したり、祭壇を運んだりした経験を活かして、舞台の大道具に関する仕事をしたいと思っていたからです。
いくつかのアルバイトを経験したのち、葬儀関係なら未経験の分野よりも役に立てるだろう。
そう考えて、葬儀の人材派遣の仕事に登録しました。そこでご縁のあった都内の葬儀社さんから声がかかり、専門学校を卒業後に就職しました。
入社当初からご葬儀の打ち合わせや運営などに携わらせていただき、今でいう葬祭ディレクターの仕事を3年間務めました。そのときに花や司会、セレモニースタッフなど専門スキルを持つ方々のマネジメントも行っていました。
しかし当時の社内では、数多くのご葬儀を施行することや、大きな社葬などを受注することが重視されていました。私自身、大きな社葬や団体葬の担当をすることもありましたが、「自分がやりたいこととは何かが違うのでは・・・」と心に引っかかるものを感じていました。
そのような中、何かの折に父と電話をした際、父から発せられたある一言で私は自分が求めていたものに気が付いたのです。その一言とは「稚内では今でも、司会や葬儀サービスは町内会が取り仕切って行っている」というものでした。葬儀サービスの行き届いている東京の当たり前は、稚内の当たり前ではない。そう気が付いた私は平成9年の春、22歳のときに稚内へと戻ることを決めました。
もちろん、多くの経験を積ませていただいた東京での葬儀の仕事が嫌になったわけではありません。ただ、葬儀サービスがまだ確立されていない稚内で1から始める方が面白い、と思ったのです。
稚内に戻り、最初は何から始められたのでしょうか?
まず、祭壇道具をプランごとに整理して、料金カタログをつくりました。そしてお客様がプランを選びやすくするとともに、料金の明瞭化を行いました。また、火葬場へ大勢の親族が移動できるように霊柩バスを購入し、霊柩事業を始めました。
その後、東京で学んだ司会を取り入れたり、アルバイトの方々を集めて研修をし、葬儀の運営をする「セレモニーサポート」というサービスを平成14年に始めました。同時に、香典帳作成のパソコンソフトを開発しました。今までは手書きであった香典帳もパソコンソフトに打ち込み印刷することによって、見やすく整理された状態でお客様にお渡しすることができるようになりました。
長年、地域の方々が相互扶助の精神で葬儀のお手伝いをしていましたが、お手伝いの人は会社を休まなければならないといったご負担もあったため、「武藤さんに任せれば大変楽だ」と言っていただけるようになりました。なにより私は、気遣いなくお葬式が出来るようになったとお客様に喜んでいただけたことが、とても嬉しかったです。
そしてこのタイミングで、稚内博善社から「武藤はくぜん」に社名を変更。
葬儀社は一般的にネガティブなイメージがあると思います。けれども、大切な人が亡くなって大変悲しんでいるご家族を全力で支える仕事なのだと、私は祖父や父から教えられてきました。「博善」とは、ひろくよいことをするという意味で、稚内博善社と祖父が名付けました。創業時は武藤はなやという名称だったので、地域の人たちからは親しみを込めて「武藤さん」と呼ばれていました。けれども電話に出るときには「稚内博善社です」と応えていましたので、これを機に両方を活かせる社名の方が良いのではないかと思い、社名を「武藤はくぜん」としました。
この頃の受注数は家族で十分に施行できる程度でした。父が地域の方々やお客様とのご縁を大切にして、ご葬儀のご相談や打合せなどを行い、母が電話番や仏壇のお店の切り盛り、アルバイトの人たちのご飯をつくり、そして私が祭壇を設営するという絵に描いたような家族経営でした。
会社が大きく変わったのはいつ頃からでしょうか?
セレモニーサポートを始めた平成14年頃からです。
当時は、花祭壇をつくっていただける花屋さんが稚内にはありませんでした。東京にはあたりまえにあるものでも、稚内ではそうではなかったのです。そこで私は花の技術を学ぶために、札幌市の花の先生のところに通うことにしました。ところが札幌市までは車で片道5時間以上かかるので、頻繁に通うことはできません。そのためレッスンの日は朝から夜まで1日がかりで教えていただきました。先生の知り合いの花屋さんを紹介していただき、そちらで現場の仕事も教えていただきました。その甲斐もあって、国家資格の1級フラワー装飾技能士も取得することができました。そして平成15年に、有限会社武藤フラワーを設立しました。ようやく自分がつくりたい花祭壇のイメージを実現できるようになったのです。
そこから受注数は徐々に増え、家族だけで施行するには難しくなってきたかなと思っていたところ、農協さんが新規参入で葬儀場を建てることになりました。それも近所に・・・。
葬儀場が建てば、葬儀場を持っておらず、家族経営である私たちが立ちいかなくなるのは明白でした。
そこで父と相談し、私たちも葬儀場を建てよう!と決意しました。どんな葬儀場を建てるべきかを学ぶために、盛岡から全国を回ったのです。その際に、「よく最北端の遠いところから来たね」と感心され、訪問先の葬儀社の皆様には大変よくしていただきました。そのご縁は今でも繋がっており、様々な学びの機会をいただいております。葬儀社の皆様からの貴重なアドバイスの甲斐もあり、平成16年9月、ついに私たちの葬儀場をオープンすることができました。ひろく市民の皆様のお役に立てるようにと、むとう市民斎場と命名しました。受注数はさらに増えていき、私たちの決断は間違えていなかったと感じました。
「農協が葬儀場を建てる」という知らせが、大きな転機に繋がったのですね。
はい。お客様から選ばれる葬儀社になるためには、1件1件のお客様を、一期一会のまごころで、しっかりと支えていくことが重要だと思っています。
農協さんが葬儀場を建てると聞いたときにその想いはさらに強まり、私たちも負けずにより良いサービスをお客様に提供していきたいと感じました。その想いが結果として私たちを成長させてくれたのだと思います。
また、となり町の豊富町にも農協さんが営業をかけていたので、豊富町の葬儀社である豊富はなやさんから支援要請があり、私たちがお手伝いをすることになりました。その後、豊富はなやさんの経営者が亡くなったことで、私たちが事業承継をすることになりました。結果的に、私たちの営業エリアはこの頃から広がっていきました。営業エリアが稚内から広がったことによって、営業エリアにお住いの皆様を支えるために私たちができることとは何か、ということをより一層考えるようになりました。
その後、葬儀時の料理に関して、数の変更や要望などに素早くお応えできるように、葬儀・法要料理の事業を始めました。また、猿払村の皆様から「ホタテ漁の忙しい時期に葬儀の手伝いで村民が大変だ、武藤さん、猿払村まで来て葬儀サービスを提供してほしい」とお声がけをいただきました。そういった皆様のご期待に応える形で、猿払村での営業を開始させていただきました。
家族葬が主流になってくると、平成22年に家族葬のさくらホール、平成30年には家族葬邸宅こすもすをオープンするなど、家族葬のニーズにも対応していきました。そのようにお客様からの要望へ真摯にお応えしていくうちに受注数は増え、元々家族経営で営んでいたとは思えないほどの規模へと成長していきました。
祖父が昭和に武藤はなや(葬儀・造花業)を創業し、父が平成元年に社長に就任し、31年間、会社の信用を築いてくれました。そして、令和元年に私が社長に就任しました。父が病気を患ったこともあり、令和元年を節目として社長を交代するのがいいだろうということになったのです。
20代から現場だけではなく、人の採用や教育・訓練、財務運営なども父から任せていただいていたので、その経験は今に活かされています。社長になってもまだまだ学ぶことは多いのですが、20代からそのような経験を積ませていただけたことに感謝しています。
平成9年に、武藤社長が稚内に戻ってきたときには、社員がいなかったのですね。
はい。初めて社員を採用したのは平成18年です。新卒採用は平成21年から始めました。
私は演劇の学校を出ているので、職員にはよくロールプレイングで役割を演じてもらい、動作などの練習を重ねました。また、職員を先輩の葬儀社の研修に参加させていただいたこともあります。
職員が増えることによって、教育・訓練の仕組化、給与制度や人事評価制度、ミッションやビジョンの言語化など様々な社内整備が必要となり、失敗を繰り返しながらも進化しようと、日々様々な取り組みを行っています。
いつも、多くの先輩方から地方でもしっかりやれば大丈夫、しっかり頑張れ!とエールをいただいています。
では最後に、武藤はくぜんがこれから目指すビジョンを教えてください。
ご葬儀をされるご家族の支えとなり、地域の皆様の支えとなることで、「人が支え合う、暮らしやすい故郷」をつくる手助けをしていきたいです。
武藤はなやを創ってくれた祖父も、武藤はくぜんを育ててくれた父も、すごく人を愛した人たちでした。私は2人から事業だけでなく、「困っている人の力になりたい」「地域に貢献したい」という想いも受け継ぎ、地域の皆様のお力になれるよう尽力していきたいと思っております。
その中での私たちの役割は、「大切な人をていねいに送る」という儀礼文化を、葬儀を通して創ることだと思っています。
葬儀をただ終わらせるだけなら、正直、どの葬儀社を選んでも関係ないと思います。悲しみの最中に「良い葬儀をしたい」と考えられるほど余裕のある方は、なかなかいないと思います。インターネットやテレビの影響を受け、「葬儀はただお金がかかるだけ」という価値観を持っていらっしゃる方もいるでしょう。
しかし、故人様を丁寧にお見送りすることによって、ご家族が、故人様の想いを引き継ぎ、その先の人生へより力強く踏み出すきっかけになる、と私は考えています。
だからこそ、ご縁があってご葬儀のご依頼をいただくことができたのであれば、故人様に感謝と敬意を伝えられると同時に、ご自分の人生を改めて振り返ることができるご葬儀にして差し上げたいのです。
そういった「挙げて良かった」と思えるご葬儀を1件1件丁寧に施行することが、信用の積み重ねとなり、ひいては地域に信頼される会社になるのだと思っています。
そもそも私が故郷に戻り葬儀社を継いだのは、故郷稚内の皆様により良い葬儀サービスを提供したいと思ったからです。この初心を忘れずに、お客様から「稚内は田舎だからこの程度しかできない」と思われないように、社員と想いをひとつにして、努めていきたいと思っています。
そのことで「稚内に生まれて良かった」「暮らせて良かった」「稚内で頑張ってきて良かった」と思うことができる地域づくりに微力でも貢献していきたいと思っています。
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