Interview with the management経営者インタビュー

一人でも多くの人の役に立ちたい~(株)やながわ~

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和歌山

2021.05.30

社会貢献/自己実現

一人でも多くの人の役に立ちたい~(株)やながわ~

本日は和歌山県岩出市に本拠地を置き、葬儀式場を3か所展開する株式会社やながわの柳川豊和社長にお話をお伺いしました。事業を承継するとは思っていなかったところから成長を続け、市内の約半分のシェアを獲得するまでとなった同社。そんな会社はどのようにして作られていったのか、たくさんのことをお話しいただきました。

創業のお話をお伺いしてもよろしいでしょうか?

元々は花の小売業からスタートしている同社。創業は昭和25年です。本当に小さい、1坪のスペースからの創業でした。その時に葬儀社の花の注文も受けていました。

それが徐々に知り合いのご葬儀時代の請負をするようになりました。親戚や親しい人だけですけどね。それも1年に数件程度の話。私も会社に戻ったばかりの頃は、花の仕事を中心にしながら葬儀の請負をしていました。

社長が会社に戻られたのはいつのことでしょうか?

24歳の時ですね。大学卒業後、普通にサラリーマンとして働いていました。というのも、もともと家業を引き継ぐ予定もなかったのです。

大学卒業の時に父と、会社を継ぐかどうかの話をしました。その時に、「継がない」という話に落ち着いたんですね。それで就職したんです。ただ、父親が足を怪我してしまい、急遽戻ってきてくれと。就職して3か月の頃でした。ですから入社してすぐ退社です。申し訳なかったですね。

戻ってこられてからはどんな仕事をしていたのでしょうか?

戻ってから3年間は父親のスタイルを継続しました。葬儀社の下請けとして花を卸ながら、時々知り合いのご葬儀の請負をしていました。

ただ段々と花の売上も落ちていく中、気づいたことがありました。当時、お葬式のお手伝いをする際に、司会を大阪から呼んでいました。その人の日当が1日3万円。私が3か月だけ働いた会社の初任給が9万円だった時代です。その司会は、私が稼いでいた初任給を3日で稼ぐわけです。

そこで、私も本格的に葬儀に力を入れようと思い立ち、その司会の人に弟子入りを頼みました。やる気があるなら堺に引っ越して、教えてあげるよ。といってもらえて、2年間修行にでることになったのです。

その時に前社長はどういった反応だったのでしょうか?

反対でしたね。というのは、もうすでに当時は私が中心に仕事を回していましたので、私が修行に出るということは、その仕事を父がするということになりますから。ただ、私としてはそのまま花の事業だけで伸ばしていくのは難しいと思っていましたので、反対を押し切って修行に出ました。

その行動力が素晴らしいですね。

そして修行を戻ってきてから事務所を作りました。とはいえ、地元では知名度もありません。当時は老舗の葬儀社の独占状態のような状況。修行をしていた親方の得意先に派遣スタッフとしてお手伝いし、何とか稼いでいました。

そんな状態は3年くらい続きましたかね。そのうち少しずつ葬儀の依頼を頂けるようになってきました。そして借り入れをして、葬儀式場をつくることを決めました。まだ少しずつ増えてきた段階ですから、今思えば大きなチャレンジだったと思います。行ける確信があったわけではないのですが、ただチャレンジしないとその先はない、その想いの方が強かった記憶があります。

ただ葬儀式場とはいっても、そんな豪華なものは作れません。本当に倉庫の一角に幕を張って、簡単な葬祭ホールを作った。そんな感じでした。その葬祭ホールが軌道に乗り始めてから改装。当時は事務所の2階に住んでいたのですが、その2階を改装して、会食ルームを作りました。

本当にチャレンジをされてきたことを感じます。

その当時は、1施行、1施行が本当に大事でしたね。次につなげなければと必至でした。一時期、安さに走ったこともあったんです。やはり最初ですから、少しでもお客様に選んでもらおうと。

ですが、それは失敗でした。安くすればするほど経費も大変になります。そして何より安くしたとしても、お客様にも喜んでもらえないんです。安ければいいというわけではないんだと本当に勉強になりました。むしろ、しっかりと料金を頂いて、お客様に喜んでもらえるようなことをしっかりと提供する。

そのように考えを変えてから少しずつお客様の反応も変わってきたと感じます。気持ちの部分はもちろんのこと、当時はお通夜の席に葬儀社はいないのが当たり前でしたが、お通夜も入ってサポートをするようにしました。常識にとらわれず、どうやったらお客様に喜んでもらえるかを必死で考えていましたね。

その後、大きな葬祭ホールも建てられました。

そうですね。当時の売上と同額の借り入れをして、式場を作りました。その頃は大きなホールが主流でしたので、その流れに乗らなければという想いです。

ただ、近所から反対が出てしまい、一瞬やめようかとも思いました。ですが、作ることで喜んでくれる人と反対される人の数を比較してみたんですね。反対している人というのは、近所の人たちのみ。

一方、ここに綺麗で大きな式場を作れば、多くの人が喜んでくれる。それを考えて、やはりつくることを決めました。決して無茶をしてきたわけではなく、お客様の要望が先にあって、投資をする、そんなことを繰り返してきた感じですね。

生花店からスタートした会社が大きく成長されました。

今では、シェアも50%近くまでになる事が出来ました。これもお客様に誠実に向き合ってきたからこそだと思っています。そのおかげもあり社員も徐々に増えてきました。

社員にはお客様に誠実に対応してほしいということだけを伝えています。それは、お客様との約束を破らないということですね。破らないためには、できないことを約束してもいけないとも伝えています。値段の部分でいえば、今はネット葬儀などもあり、一番安いということは実現できないかもしれない。だけど、誠実さは負けないで行こう、と。

これまでの成長の原動力はなんだったのでしょうか?

会社を大きくしたいなぁとはずっと思っていました。息子の目から見ていたら、父は本当に頑張っていました。頑張っているのに何で大きくできない、大きくならないんだという想いがありました。どこか悔しい気持ちです。

ですから父親への恩返しではないですが、私が会社を大きくして、父親の思いを形にしたいと思ってやってきました。父はもう他界してしましたが、生前、息子が頑張っているんだと喜んで話をしていたということを聞いた時には、少しは想いが達成できたかなと感じました。

この先、目指しているところはありますか?

正直なところ、一回燃え尽き症候群のようになってしまったことがあったんです。先ほどの自分の想いをベースに頑張ってきたものが、ある程度形になった瞬間に、その次に何をすべきかがわからなくなってしまったんです。

そんな状態が2、3年続きましたね。ただ徐々に考え方が変わってきたのが、これまでは自分のためだった考え方を、1人でも多くの人の役に立ちたいという想いに考え方に変わってきました。

昔は、商売を大きくすれば、その先に幸せがあるのだと思っていました。ですが違いました。昔に比べれば金銭的には裕福になったかもしれません。ですが、それが幸せのすべてかといえば違うんだと思います。

今はむしろ、自分や会社のことだけではなく、お客さまや従業員、地域の人のことの方が考えることが増えました。まだ幸せの形が何なのか、答えは見つかり切ってはいませんが、それを見つけるためにも生涯現役で頑張りたいと思います。

<この記事を書いた人>
つむぎ株式会社 代表取締役社長 前田亮。静岡県立清水東高校、慶應義塾大学経済学部卒業後、新卒で株式会社船井総合研究所に入社。エンディング業界の立ち上げを行い、チームリーダー、グループマネージャーを得て、35歳で部長となり、BtoCサービス業全般を広く携わる。10億円未満の中小企業における「業績を伸ばす組織作り」をコンサルティング領域とする。「信念のあるいい会社」にもっと入り込んだお手伝いをしたいと2020年独立し、つむぎ株式会社を創業する。

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